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テトゥアンが襲撃されたのは…?

 新年早々更新が滞りまして失礼いたしました。予定外のイベントが続くと疲れますね…。愚痴はさておき,とりあえず前回の続きから。

 テトゥアン考古学博物館が思いのほか立派だったことについては前回触れました。で,今回は,テトゥアン考古学博物館でのお目当ての碑文をご紹介しておきたいと思います。それがこちら。

IAM, 2, 55

残っているのは断片なので全体がどうだったかは分からないのですが,この碑文の残っている部分には,テトゥアンの古代名であるタムダ市を襲った蛮族を撃退し,平和を回復した,と記されています。そこで問題になるのが,タムダ市を襲撃した蛮族とは何者で,それはいつのことか,という点。ある研究者は,3世紀半ばの北方からのゲルマン人の襲撃のことであると言い,またある者は3世紀半ばの出来事でも,襲ってきたのは周辺の山岳民であると言い,またある者は3世紀末,ディオクレティアヌス帝の同僚であったマクシミアヌス帝が遠征に来たときのことであると言い,まぁ,議論は収拾がついていないわけです。肝心の撃退した主体が書かれていたであろう部分は残っていませんし,パレオグラフィー的にも,遅い時代だよね~,という程度までしか言えないわけですから,結論としては分からない,としか言いようがないのですが…。

 現地に行ったら何か思うところがあるだろうか,と思っていたのですが,あったようななかったような? いずれもう少し見通しが立ったら改めて取り組んでみたいと思います。

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.17 2017 テトゥアン(Tamuda) comment0 trackback0

意外と立派な博物館


 タンジェの町にはそれほど古代関係の遺跡がなかったので、その足でテトゥアンの町へ向かいました。タンジェの西60キロメートルほどのところにあり、古代にはタムダと呼ばれていた町です。フランス語表記では「テトゥアン」ですが、タンジェのバスターミナルでは「ティトゥアン」と言っていたような。テトゥアンまでは結構険しい山道ですが、道路自体はきちんと整備されています。タンジェの郊外では、開業を待つTGV車両も見えました。

 さて、前にも書いたと思いますが、現在のモロッコ、古代のマウレタニア・ティンギタナ属州は、碑文の発見点数の少ない地域です。テトゥアンでも見たい碑文があり、同地の考古学博物館収蔵とされていたものの、ラバトの考古学博物館がそれほどは大きくなかったこともあり、それほど期待はしていませんでした。しかも、テトゥアンで確認されているラテン語碑文は3個だけ…。まぁ、あまり期待しようがなかったわけです。

 ところが、案に相違して、テトゥアンの考古学博物館はかなりしっかりしていました。むろん規模はそれほど大きくはないものの、周辺で発掘された遺物やモザイクもきちんと整理して展示されているほか、モロッコの他地域の古代遺跡についても解説があるという次第。お目当ての碑文も展示されていたほか、数少ない残りの碑文もきちんと展示されていました。いや、素晴らしい。

 この博物館で意外だったのは、解説がアラビア語・フランス語のほかに、スペイン語でもなされていたことでした。すっかり失念していたのですが、モロッコはかつて全土がフランスの植民地だったわけではなく、北部はスペインの支配下に置かれていたのでした。そして、テトゥアンは、そのスペイン領モロッコの首都だったのだそうです。この考古学博物館のある種の充実ぶりを見るにつけ、古代ローマ史研究と帝国主義の関係を思い起こしてしまったのでした。この博物館がどういう経緯で建てられたのかは調べていないので分かりませんが…。

 博物館の写真も載せようと思っていたのですが、手元にないので、また改めて。それでは、良いお年をお迎えください。

1月2日追記
遅ればせながら、テトゥアン考古学博物館の写真をアップしておきます。参考になれば幸いです。

Tetouan_musee archeologique

.31 2016 テトゥアン(Tamuda) comment0 trackback0

マウレタニア・ティンギタナ属州の中心都市?


 以前,モロッコで最も重要な古代遺跡として,ウォルビリスの遺跡を紹介しました。モロッコの中では比較的保存状態も良く,発見されている碑文も多い遺跡です。そのためか,ウォルビリスがマウレタニア・ティンギタナ属州の中心,属州首都であった,という記述を見ることもあります。ご紹介した「平和の祭壇」碑文群を歴代の属州総督が捧げていることも影響しているのかもしれません。しかし,古代の属州名は,あくまでも「マウレタニア・ティンギタナ」でした。同じマウレタニアの名を持つ東隣りの属州,マウレタニア・カエサリエンシスの属州首都がカエサレア(現在のシェルシェル)であったことを考えれば,この属州の中心地はティンギス,つまり現在のタンジェ(あるいはタンジールとも)であったと考える方が自然なのではないかと思います。というわけで,ウォルビリスの後,タンジェに向かいました。

 とはいえ,ジブラルタル海峡に面したタンジェの市街地は古代以来連綿と居住が続いており,古代の遺跡は影も形もありません…。古代の市街地だったと考えられる丘はカスバになっており,イスラーム時代の迷路のような街区が残っています。その中には,イブン=バットゥータのお墓もあり現地の子どもに連れていかれたのですが,こちらのお目当てはカスバ博物館でした。

musee Kasbah_Tanger
(カスバ博物館)

というわけで,カスバ博物館にたどり着けたのは良かったのですが,改修工事のため閉鎖中,とのこと。もっとも,所蔵されている古代の碑文はわずか数点とされています。発掘すれば何か出てくるのかもしれず,はたまた再利用されて残っていないのかもしれませんが,いずれにせよタンジェの町の古代史に関する研究の現状はお寒い限りなのです。属州の中心都市であったのかどうかも闇の中…。

 帰り道,カスバの外の公園から,ジブラルタル海峡を挟んでイベリア半島が遠望できました。こうやって見ると,この海を渡ってみない方が不自然だなぁ,という気がしてきます。実際,多くの人が渡ってきたわけですし,当日も,スペイン人と思しき観光客はたくさん見かけたわけですが。

Tanger.jpg
(市内の公園からイベリア半島を望む)

 蛇足ながら,最後に現代の碑文をご紹介。アラビア語とフランス語のバイリンガル碑文です。現在,タンジェ市内では大規模な再開発工事中で,鉄道駅もかつてのフェリーターミナル横から,郊外の再開発エリアに移転しています。そこに発着する列車の本数は日本のローカル線並みで,現状では首都ラバトまで5時間ほどかかっているのですが,なんと,その区間(タンジェ~ラバト~カサブランカ)に,サウジアラビアとフランスの支援で,いずれTGVが走るというのです。線路の工事はだいぶ遅れているようですが,既に真新しいTGV車両がタンジェ郊外の車庫に停まっていました。いずれそれらが走る日が来ると思うのですが,既にその高速鉄道建設を記念した碑文が真新しい駅に立っているという次第。随分気が早いなぁ,という気もするのですが,未来の歴史家はどんな解釈をするのでしょうね?

TGV_Tanger.jpg
(タンジェ駅で見かけた記念碑)
.30 2016 タンジェ(Tingis) comment0 trackback0

続・ウォルビリスのアーチ

 前々回,モロッコ内陸部のローマ遺跡ウォルビリスにある,カラカラ帝に捧げられたアーチについて,カラカラ帝の発布したアントニヌス勅令と関係があるのではないか,という説があるとご紹介しました。アントニヌス勅令というのは,帝国内の全自由民に対してローマ市民権を付与することを命じた,世界史の教科書にも出てくる有名なアレです。とはいえ,本当にそうなのかなぁ,というところでその回は終わりました。で,それについて調べてみたわけではないのですが,ちょうど調べていたテーマの関係で,関連する別の仮説が出てきたのでご紹介しておきます。

 それによると,ウォルビリスでアーチが建設されたのと同じ年,ウォルビリスと同じマウレタニア・ティンギタナ属州の別の都市で,カラカラ帝によって発布された別の皇帝法が青銅板に刻まれています。その銘文には,皇帝が滞納税の支払いを免除してやる代わりに,その恩恵に対する返礼として「天の動物たち」を納入せよ,と命じている内容が記録されていたのです。そもそも「天の動物たち」って何だ? という疑問はあるのですが(単に「皇帝に相応しい動物」という解釈が有力?),それはさておき,ウォルビリスのアーチとの関係で言えば,その滞納税免除の対象が属州単位になっており(これはこれで,北アフリカの属州全部なのか,両マウレタニア属州なのかetc.議論は分かれるのですが…),ウォルビリスのアーチも滞納税の支払い免除に対する謝意を表したものなのではないか,というのです。同じ年の同じ地方の史料がもとになった仮説ですし,こちらの方がありそうかなぁ,という気はしています。

 とはいえ,滞納税の支払いを免除してもらった記念にアーチを建設して奉献する,というのは,また新たに浪費を繰り返しているようにも見え,若干気にかかるところではあります。南西端の属州で,ローマ支配が安定していたかどうかすら怪しい所ですから,そういうものかなぁ,という気もするのですが…。史料が少ない所ですので,今回はここまで。もう少し納得のいくまで気にかけておこうと思います…。

参考文献
M. Corbier, Le discours du prince, d’après une inscription de Banasa, Ktèma, 2, 1977, 211-232.

.30 2016 ウォルビリス(Volubilis) comment0 trackback0

続・トラヤヌス帝の記念柱

 昨年5月,トラヤヌス帝の記念柱のレリーフについて,文庫クセジュの『ハドリアヌス帝:文人皇帝の生涯とその時代』(R・シュヴァリエ/R・ポワニョ著、北野徹訳、白水社、2010年)の35ページにこんなことが書いてある,という話を書きました。

「最近の仮説によると、ダキア戦争を描いた円柱の帯状装飾(レリーフ)はハドリアヌスが刻ませたものとされており、もともと円柱の柱心の表面は無地であった可能性がある。」

不勉強で「最近の仮説」って何のことでしょうね,というところで終わっていたのですが,私も寄稿させていただいた『モノとヒトの新史料学』(豊田浩志編,勉誠出版,2016年)所収の坂田さんの論文にこの件について紹介されていましたので,遅ればせながらご報告。1993年のアマンダ・クラリッジの論文がその研究らしいのです。

 それによれば,建設前後に発行されたコインに表現された記念柱の図像に浮彫りが表現されていないことから,建設当初は現在のような浮彫りは施されていなかった,と考えられているとのこと。記念柱は,元来,フォルムの建設とダキア戦争の戦勝を記念して建設されたものであり,トラヤヌス帝の死後,ハドリアヌス帝によって浮彫りが施されるとともに,トラヤヌス帝の墓とされた,というのがクラリッジ説なのだそうです。

 何を隠そう,私自身の寄稿した文章でも,セプティミウス・セウェルス帝の凱旋門のもともとの形状を復元するのにコインに依拠した研究を参照していますので,コインを根拠にすること自体はそんなに変な話ではない,と思います。ただし,若干に気になるのは,当時のコインに本当に浮彫りが描かれていないのかどうか。チラッと検索してみた限りでは,のっぺりした無地っぽく表現されているものも確かにありますが,螺旋状の線が入っているものもあるような… 気のせいでしょうか? クラリッジ論文をきちんと読んだわけではありませんので,そんなことは先刻ご承知なのかもしれません。とりあえず,トラヤヌス帝の記念柱に当初は浮彫りがなかったという説の典拠が紹介されていました,というお話でした。いずれ気が向いたらクラリッジ論文も読んでみたいと思います。

.30 2016 未分類 comment1 trackback0
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大清水 裕

Author:大清水 裕
ラテン碑文を使ってローマ史の研究をしています。メインはディオクレティアヌスの時代。最近はだんだん時代を遡っているようです…。

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